BIG ME club | 内藤景代が毎日更新する 日誌風エッセイ 最新情報 |
内藤景代 記 |
2002年8月12日(月) ●早稲田大学の近くの箱根山、 セミ時雨の中で、思い出す、1960年代 ●父の思い出 愛犬のボクサー、ロンとの散歩 足弱なむかし ●紅テント旗上げ 唐十郎の芝居 ●捕虫網をふりまわして、セミ(蝉)をとる少年 |
きょうから、NAYヨガスク−ルは、一週間の夏休みです。 8月12日(月)〜18日(日) ●きのうは、レッスン後に、「夏休みモ−ド」に、即(そく)、切りかわり、 東新宿のレッスン場所から歩いて、西日(にしび)をさけながら、 久しぶりに箱根山(はこねやま) =戸山(とやま)公園 へむかいました。 ●――そうすると、イメ−ジしていた通りの懐かしい「夏休み風景」を見ました。↑ 捕虫網(ほちゅうあみ)をふりまわして、セミをとる少年と、 虫かごをしっかりともって待機する少女…。 そして「昆虫採集(こんちゅさいしゅう)のコツ」を 身をもって教える若い父親… むかしの原っぱで、よく見た光景だな… と思って見ていると、聞こえてくる、若いお父さんの 日本語のイントネ−ションは、中国風(?)… 大久保のコリアン・タウン(韓国人街)も近いので、韓国風(?) ――日本的な夏休みの光景は、 実は、モンス−ン地域のアジア的な光景なのかもしれません…… ●――もう、秋の虫の声もしますし、 盛大に鳴いているセミの大合唱も、 ラストの追い込み…という感じがします。 あせっている? そういえば、何を勘違い(かんちがい)したのか、 先日、夕方の散歩中に曲がり角で、 出会いがしらに、騒音とともに 「大きな茶色いもの」が 目にぶつかり、びっくりしました。 「何 ?」 ●――鳴きながら飛んでいるセミでした。 その後、そのセミは、 逃げもせずに、すぐそばの電信柱にとまり、 盛大に鳴いていました。 そのセミ(赤い矢印でしめした部分)→は、 羽根を広げて、わたしの目にぶつかってきたので、 目にとっては、 巨大な鳥のように拡大されて見えたわけです。 びっくりしました。 ●黄色い小さなバッタ (目の部分に紺色の斑点がいくつもあるもの)も、 よく、わたしの顔にぶつかってきて、 見つめあったりしますが、あれは何なんでしょう? 虫の特攻隊(とっこうたい)? ※後記;黄色い小さなバッタ(目の部分に紺色の斑点がいくつもあるもの)の写真は、こちらへ。 ●さて、話をもどします。 箱根山は、セミ時雨(しぐれ)の中で、涼しい風がふき、 夏草やシュロが鬱蒼(うっそう)としげっていました。 ↑●自然に(?)輪(わ)になっていた草。 ●1960年代の頃 ――今は国立大学教授の――唐十郎(からじゅうろう)さんが、 「紅(くれない)テント」を旗揚げ(はたあげ)したのは、 この箱根山の中だった…とききましたが… どのへんだったのかな? ――と思いながら、登り降り(のぼりおり)して感じました。 ――学生時代は、すぐそばの大学にいながら、 こんないいところに、なぜ、あまり来なかったのか? ●――足もとをみると、 当たりまえに、夏でもスニ−カ−をはき、 パンツ・ルックで歩きやすくしている、自分 …に気がつきました。 ――むかしのわたしの学生時代は、 夏はかかとのあるサンダルで、 ふだんはロ−ヒ−ルにスカ−トです。 1900年に生まれた(昭和天皇と同年)、 明治生まれの父がうるさくて、 「お嬢さんらしいかっこう」をしないと、叱られたからです。 …だから、当時は足弱(あしよわ)で、 父に似て、歩くのが嫌いでした。 まぁ、父の晩年は、 飼っていた大型のボクサ−犬・ロンの散歩があり、 父娘ともに、少しは歩くのが好きになっていましたが… …それで、4年間の在学中に、 歩きにくい箱根山へは 1回か2回くらいしかきませんでした。 ――今年の9月が、1970年になくなった、その父の33回忌です。 ●夏目漱石(なつめそうせき)の 『草枕(くさまくら)』の冒頭(ぼうとう)の文ではないですが、 「山道を登りながら、 (いろいろと)考えた」 わたし…でした。 ――足は、自然にかつての母校、 早稲田大学の文学部の校舎へ向かいながら… ●続きは、また明日。 ※後記;「紅(くれない)テント」とわたし達はよんでいましたが、主宰者は、「紅(あか)テント」とよぶそうです。 |
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