BIG ME club | 内藤景代が毎日更新する 日誌風エッセイ 最新情報 |
内藤景代 記 |
2002年8月13日(火) |
◇「柔らかいもの、みずみずしいもの」が、固められ、 確固としたものがたくさん建てられてきた東京 ◆ 早稲田大学 ■東京都庁 淀橋浄水場 ノラ(野良猫) ☆花に嵐のたとえもあるさ ★ワセダミステリークラブ モンシェリ ●都電 路面電車 神田川 面影橋 過去に主体的にトリップ |
きのうの続きです。 ●箱根山(はこねやま)を下りて、戸山(とやま)公園をでると、緑にかこまれた新しい見知らぬ建物がありました。 それが、早稲田の文学部の学生会館で、若い女性たちが出入りしていました。 ●長く黒いフェンス(塀)が続き、「ここはどこなのだろう?」と思うと、全部がフェンスにかこまれた文学部でした… ●――常駐の守衛さんや、フェンスは、ふつうの大学なら、当たりまえなのでしょうが…わたし達の頃までは、「早稲田(わせだ)は、閉鎖的な門をもたない、開かれた大学」という伝統があったので、「なんか、ちがうな〜」という違和感がありました。 ●入学式や卒業式をした記念会堂、腰かけておしゃべりしたスロ−プ、学んだ校舎など、入り口の守衛さんのボックスに守られたフェンスごしに見えました… ●大きな木がいくつも伸びて、キャンバスを緑でおおい、見通しが悪くなったぶん、殺伐(さつばつ)とした、1960年代の学園闘争の荒れた大学のイメ−ジはなくなっていました。 ●「緑がある、というのは、こころにうるおいを感じさせるな〜 あの頃は、コンクリ−トの新しい建物ばかりで木陰(こかげ)もなく、緑が欲しいと、近くの穴八幡(あなはちまん)神社へ行っていたな〜」 ―― と思い出しました。 ●本部校舎の方へいくと、やはりぐるっと黒いフェンスでかこまれ、守衛さんは夏休みなのに、たくさんいました。 門の入り口に「ヘルメットと凶器の持ち込み禁止」とかいてあって、笑ってしまいました… ――「今のご時世(じせい)に、当たりまえでしょうに〜」と思いながらも、あの1960年代の終わりから「ヘルメットや凶器」を持ちこんであばれる学生運動家(=体育会系の運動ではなく、左翼的な革命運動をする学生たちのことです)は、ソ連などの社会主義国の崩壊後も、変わらずに続いているんだな〜と感慨深く、見てしまいました。 ★※後記:→「7月21日のエッセイの※後記」に、1960年代のことについての『BIG ME』の本の参照ペ−ジをかきました。 ●一番、胸がひんやりして、イヤだったのは、「当時の学生たちのたまり場で、いこいの場」だった――「おふくろ」などの食堂や、わたしの入っていたミステリ−・クラブのたまり場の「モン・シェリ(上階が、早稲田小劇場=現・SCOTのアトリエになっていました)」などの喫茶店が並んでいた――文学部と本部を結ぶせまい通りが、なくなっていたこと…です。 ●「道路拡張(どうろかくちょう)」で、くるま(自動車)が入りやすくなったぶん、通りの左右の店は、きれいに一掃(いっそう)されていました。何も…ない。 通りの左は、お寺の塀で、右は早稲田実業(?)の校舎らしい… あの頃ヒットした「学生街の喫茶店」など、ほとんど、ありませんでした。「ぷらんたん」と「高田牧舎」は残っていましたが… ●…そういえば、井伏鱒二(いぶせますじ)さんの漢詩の意訳の名文の書(を見たのも、かつてあった「茶房(さぼう)」でした。 「花に嵐(あらし)の たとえもあるぞ。 さよなら だけが 人生 だ」 ※後記:新版『こんにちわ私のヨガ』155nに一部を引用しています。 ●わたしは、父も母も東京生まれの東京育ちで、いわゆる故郷(ふるさと)をもちません。 ――そして、生まれ育った場所は、道路拡張で、なくなりました。 東京の現地人(げんちじん)によくある体験ですが… 立派な道路がどんどんできる東京…。 どんどん追いやられる、そこに生まれ育った人たち…… ●――早稲田大学の30年間の変貌は、 「当たりまえ」と見ていた、わたしですが、 「道路拡張による、通りの消滅」は、ダブル・イメ−ジで、 胸が冷えてしまいました…… ●――それで、自分で自分を癒す(いやす)ために、 あえて、今はない、ふるさと近くへ行く 都電(とでん 路面電車)に揺られてみることにしました。 ――夕方の夕焼けの中を都電ののんびりしたリズムで、 神田川にかかる「面影橋(おもかげばし)」のそばを通って、 過去に主体的にトリップしてみようか…… ●都電で、夕闇のまわりの景色を見ながら、 ゴトゴト揺られて、緑の鬱蒼(うっそう)とした雑司ヶ谷(ぞうしがや)の墓地(ぼち)などを通っていると、 胸に暖かいものが、もどってきました…… ●そして、姉の家の近くで都電をおり、土地の古老(ころう)と化(か)した(?)――姉には、内緒(ないしょ)です――姉に会いに行きました。 昭和ひとけた生まれの姉の話は、戦前・戦後の東京の激しい変遷を教えてくれます。 …あの戸山公園と、隣接する団地(だんち)の戸山ハイツのあたりは、戦争中は「陸軍の馬場(ばば)」で、兵隊さんが馬にのり、軍事訓練していた場所だった……「戸山ヶ原(とやまがはら)」といって、広い原っぱに木がたくさんあり、起伏にとんだ場所で、電車からよく見えたとか…… 成増(なります)の飛行場から 特攻隊(とっこうたい)の飛行機が、終戦の日も飛び立ったとか… ※後記:戸山ヶ原では、「軍事訓練」という「戦争ごっこ」はしていなかった――と、姉から連絡が入りましたので、訂正させていただきます。 広大な馬場だった戸山ヶ原では、「軍事訓練」ではなく、「乗馬訓練」をしていたそうです。 「戦争を知らない子どもたち」のひとりですので、失礼いたしました。 ●――そういえば、わたしの学生時代は、 新宿の都庁のある西口の超高層ビルあたりは、 淀橋浄水場(よどばしじょうすいじょう)があり、 のら猫がたくさんいました。 ――そう考えてくると…東京の前の時代の、 江戸そのものが、埋め立て地です。 むかしは、浅草海苔(あさくさのり)がとれ、 浅草の浅草寺(せんそうじ)の観音様(かんのんさま)は、 浅草近くの海から拾われた…という伝説があります…… →→ 「柔らかいもの、みずみずしいもの」が、固められ、 確固としたものがたくさん建てられてきた東京 ――東京だけではなく日本中がある程度そうでしょう――で失ったものは、 ふるさとだけでなく、 こころの世界の「柔らかいもの、みずみずしいもの」だったような気がします。 四角いビルの林立する今、 こころには、「柔らかいもの、みずみずしいもの」をとりもどしたい…と思います。 ●きょうは、「月遅れのお盆」の「迎え火」の日です。 |
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