2002年12月14日(土) 武士の心は、腹にある――切腹と『忠臣蔵』と日本人

今から300年前、1702年(元禄15) の、きょう、12月14日の真夜中の、江戸(現・東京)で大事件がありました。――きょうは、関西の播州・赤穂の47人の浪士が、関東の本所・松坂町の吉良邸に討ち入って、主君の無念をはらし、仇討ちした日です。リ−ダ−の名が、大石内助なので、「忠臣の内助の物語」すなわち『忠臣蔵』として、「実録もの歌舞伎」で有名になりました。
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小学生の頃、ある夏休みの自由課題に、『忠臣蔵(ちゅうしんぐら)』をテ−マに選び、47人の浪人達――赤穂浪士(あこうろうし)――について、ひとりづつ調べたことがあります。
 

15〜17歳くらいの少年達もその中に入っていて、それを演じた――当時のわたしのお気に入りの――歌舞伎役者さんとイメ−ジをダブらせていた部分もありました。
 麻布(あざぶ)に近い、泉岳寺(せんがくじ)に詣で、気に入ったひとのお墓には、お線香を何本も立てたりして…… 無邪気なものでした。

今年もテレビで『忠臣蔵』を放映するとか、中村吉右衛門さんが内蔵助らしいです。
 『忠臣蔵』は、日本人の「大好きな物語」のひとつ、といわれ、高倉 建さんが大石内蔵助になった映画もありました…

――それで、敗戦国の日本を占領していたアメリカ軍(GHQ)は、日本人の仇討ち(あだうち)や復讐(ふくしゅう)を恐れ、『忠臣蔵』などのチャンバラ時代劇の映画を作ることを禁止していたといいます。

アメリカと日本が戦争したことがあることも知らない…という方もいる、「アメリカ大好き」の今の若い方には、『忠臣蔵』は、どうなのでしょうか?
 事件の発端(ほったん)の、江戸城(現在・皇居)の松の廊下での「老人(吉良上野介 きらこうずけのすけ)の若者浅野内匠頭 あさのたくみのかみイジメ」で、若者(浅野)が切れた…というシ−ンは、わかるかもしれません。文楽人形の 首

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さて、「切れた若者」の主君の仇討ちの段取りは…
山鹿流の陣太鼓(やまがりゅう の じんだいこ)で、信号(シグナル)をおくり、「山と川」の「合い言葉」で、味方同士が斬りあわなくていいように作戦をねり、14日深夜の3時頃(今なら翌日15日と表記)に寝込みを襲い(おそい)、吉良上野介の首をとり、味方には死者がひとりも出なかったといいます。
 

 しかし、仇討ちの本懐(ほんかい)をとげた後、幕府の命令で全員、腹を切って、泉岳寺に葬られました…

 ※→なぜ、日本人は「腹を切る」のか? 
  「ハラキリ=切腹(せっぷく)」と「赤い心=赤心」と「腹の心」は、以下をどうぞ。
   
  →『わたし探し・精神世界入門』 201p
                   「●武士の心は、腹にある――切腹と日本人」
 

   

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