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埴谷雄高の名を知ったのは、
1960年代後半の――今はなく、伝説になってしまった、
濃くておいしいコ−ヒ−をのませる新宿の喫茶店
――風月堂(ふうげつどう)の吹きぬけの2階の壁の落書きでした。
※風月堂とは:
1960年代のカウンターカルチャー(対抗文化)のメッカ。当時をしのぶ沢山のサイトあり。
ヒッピー、フーテン、ベ平連、学生運動家、芸術家等の溜まり場、
日本を目指す世界中のヒッチハイカーたちのあこがれの地で連絡場所でもありました。
●誰かが、待ち合わせで待たされて、
手持ちぶさたで、書いたように、右肩上がりに、
黒のマジック・インキでポツンと4文字が、壁にかいてありました。
埴輪(はにわ)? が、高い? ……?……
●わたしも、その日は待たされていて、
何だろう? と想像していました。
そして、待たせた相手
――後に、そのひとの姓=
内藤になるとはその時は知らず
――が、通りの見えるガラス張りのドアから、
バルコニ−のような2階へ花道のような階段を上がり、やってきたので、聞きました。
以下、わたしは、A=akiyo。
彼は、N=Naito。
● A「これは何?」
N「はにや ゆたか(埴谷雄高)だよ」
A「何? それ?」
N「作家だよ。よしもとりゅうめいみたいな、難解なのを、書くやつ」
A「よしもと? どんな字を書くの? ……吉本隆明。ああ、あれか。
タカアキじゃないの?」
N「音読み(おんよみ)にすると、えらそうに聞こえるから。
えらくなると男はみんな、音(おん)で読ませるようになるんだよ」
A「フ〜ン そういえば、あなたの名前は音読みにできないわね(笑)」
●吉本隆明は、今では、「吉本ばななのパパ」として、有名です。
最近の彼の本――オタクの生態に造詣(ぞうけい)の深い大塚英志との対談本
――『だいたいで、いいじゃない』では、
「よしもと たかあき」とルビがふってありますが、
むかしは、「りゅうめい」とよばれ、
東映の任侠(にんきょう)映画の彫り物の龍のイメ−ジの響きをもつ、
こわもての思想家でした。
※後記:
★1960年代のことは、
『BIG ME』の66p 「若者たちの系譜」に書いてあります。
『BIG ME』の73p では、「60年代の若者と私の青春時代」を書きました。
●また、埴谷雄高からはなれてしまいました。話をもどしましょう。
下が、彼が『死霊』の構想を練って散歩した、
井の頭公園の森を、真下から仰いだところです。↓
●埴谷雄高の『死霊』については、
『わたし探し・精神世界入門』340nにかいていますが、
ルビを通常の読みのとおりに「しりょう」とふっています。
ところが、後年、NHKテレビで、
『死霊』の朗読と埴谷のインタビュ−やイメ−ジ・ドラマがあり、
「しれい」と読むのだ、と知りました。
ここで、つつしんで訂正いたします。合掌
●埴谷雄高については、
『聖なるチカラと形・ヤントラ』の用語集の304nの
「*36―自同律」の説明のところに書いています。
●埴谷雄高の『死霊』のテ−マは
「じどうりつ の ふかい=自同律の不快」です。
そして、難解なものだ…といわれてきたので、
長い間、わたしは「食わず嫌い」で、
あの黒いカバ−の本…『死霊』には近づきませんでした。
彼のほかの本は、共感しました。
共産党という「BIG」と
個人(ME)の葛藤を
実際に命がけでやってきた体験に裏打ちされた文章だからでしょう。
●埴谷雄高は、戦前の思想運動で刑務所に入れられ、
壁を見つめて、瞑想し、
そこで、『死霊』を構想したといいます。
●ヨガや冥想を指導するようになったある時、
『死霊』は、数日間のできごとを書いた、
ドストエフスキ−的な、思想のおしゃべり本と知り、
急に読みたくなり、古本屋さんへ行くと、
「そこの棚の一番下です」といわれて、見ても、ありません。
「おかしいな。ズ−っと何年もあったのに。あの黒い本」
●どこの古本屋さんでもそうで、
しょうがなく、新刊をしらべ、注文し、
それまで出ている巻を全部まとめて買い、
暮れから正月の長期休暇に一気に読みました。
●物語は夏の数日間。
スト−ブをつけて、読みながら、
蚊がとぶ川すじのさびれた、もやにけむる町を想像する
…… ヘンだけれど、おもしろかったです。
●そして、なんと…!
つづきは、また、明日。
http://www.bigme.jp/00-0-01-essay-news/2002-07-22/2002-07-22.htm
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